【浄土宗】佛現山善徳院 隨念寺の歴史

隨念寺の歴史

佛現山善徳院隨念寺とは

隨念寺は、松平清康公と久姫を弔う為に1562年、徳川家康公によって創建されました。
清康公は家康公の祖父で、三河を初めて統一した武将であり、家康公は清康公の武勇とすぐれた資質を受けたいと思い、“康”の字を貰われました。 久姫は清康公の妹にあたる人物で、家康公の3歳頃から6歳までの間、乳母を務めた後、岡崎城で亡くなりました。
久姫は、兄である清康公を弔うお寺を建てて欲しいと家康公に遺言を残し、隨念寺が建てられました。
その後、2代将軍徳川秀忠公によって1619年に本堂と鐘楼門、1788年には庫裏や大方丈が再建され、現在の隨念寺の形となりました。
明治時代に入り、政府による風あたりが強くなったことから寺院を守るために寺院内の建物を学校として使うことを進言し、教育機関として使用することで建物の取りつぶしなどから守った歴史があります。
また、幸いにも三河地震による倒壊を免れ、空襲の被害は惣門だけに留まり、約400年前に建てられたうぐいす張りの本堂など、当時の姿をそのまま残しています。

隨念寺の年表

1562年
(永禄5年)
徳川家康公が松平清康公と久姫を弔う為、永禄5年に21歳ごろ隨念寺を創建される
1619年
(元和5年)
徳川秀忠公による寄進により本堂が再建、鐘楼門が建立される
1778~88年
(安永7年~天明8年)
15世倫譽代にて大方丈、庫裏、大玄関などを再建される
1873~99年 
(明治6年~32年)
額田郡第一番岡崎学校(現 市立梅園小学校)が隨念寺にて校地となる
1901~2年 
(明治34年~35年)
愛知県第二師範学校附属小学校(現 愛知教育大学付属岡崎小学校)の仮校舎がおかれる
1902~5年 
(明治35年~37年)
岡崎町立商業補習学校(現 県立岡崎商業高等学校)の仮校舎が置かれる
1907~8年 
(明治40年~41年)
岡崎町立高等女学校(現 県立岡崎北高校)の仮校舎が置かれる
2002年
(平成14年)
市管財課より御廟が返還される